2019年後期コスモス会員著書合同出版記念会
令和元年12月1日にアルカディア市ヶ谷で開催された合同出版界に初めて参加したので、報告を兼ねて感想を述べる。
参加者は80人ぐらい。高野公彦氏のあいさつで会が始まった。対象の歌集は10冊、批評・紹介者は、コスモス12月号で紹介をした人とは全く別の人たちだった。それぞれが選んだ十首に沿って、一人13分の持ち時間で評が述べられていった。休憩後、高野、田宮、大松氏がその十首の中から選んだ3首の紹介と評が歌集ごとに順番を変えて選んだ歌が重ならないように行われた。その中から代表として大野英子歌集「甘藍の扉」を紹介する。
批評・紹介者は田中愛子氏。コスモス四賞をとった作者の待望の歌集であると切り出され、両親の病み衰えてゆく姿を体温を感じられる近さで見届けた作者の辛さや覚悟が見えると全体の印象をまとめた。それぞれの歌のコメントは次の通り。
① 辞令より先に名刺が出来上がり差し出されたりわが知らぬわれ
社会人として在りがちだけれども見落としていることが詠まれている。あれっと思った小さな日常の差異がうまく切り取られている。
② キッチンに立てば背中に父母の笑ふ声して春めく今宵
背中というのがとても良い。向こう向きだからこそ両親はいつものように談笑をしており、結句の春めく今宵が柔らかな暖かい雰囲気を伝えている。
③ わがこゑは聞こえなくとも朝顔の枯れゆく音を父は語りぬ
病んでいる父が作者の声は聞こえなくても朝顔の枯れゆく音を聞くという歌人ならではの繊細さ、それを掬いあげる歌人としての作者。二人が歌人であったからこそ生まれた一首。
④ ベランダの椅子でこころを養ひぬ海風わたる夏の朝、夜
ベランダは病院のベランダと読める。ガラス一枚隔てた部屋の中は重苦しいが、作者は心苦しくなった時に外に出て、雄大な自然を感じそこで心を少し強くし、また部屋に戻って看病を続けるのだろう。
⑤ やはらかき甘藍の扉をひらいてもひらいてもひらいても父ゐず
歌集タイトルとなった歌。キャベツを一枚一枚開いていくとき、その行為がなにか父を探すような感じになりつつ、結句の「父ゐず」と簡潔に結んだことで、求めても父はもういないことが痛切に伝わる。
⑥ そこに父がゐるごとき香よ愛用のヘア・トニックをおく洗面所
失った人の姿や声は、アルバムを見ないなどの方法で断つことができるが、匂いは突然やってきて思い出を迫る。洗面所という日常の場所で父の匂いを感じた作者の悲しみが伝わる。
⑦ わたくしがわたしになりてわれとなり徐々に生まるる一行のうた
短歌をやる人が誰でも感じることが詠まれている。短歌を詠むとき確かに「われとなり」となると言われれば、確かにそうと思える発見のある歌。
⑧ 今のうちにひとりで泣くよその日まで母を笑顔で見守るために
老いていく、病んでいく身近な人を目の前に置いて、その人を見送るために自分がどのようにその場面を乗り越えてゆくかを教えてくれる一首。母と娘がお互いを悲しませたくないという思いが伝わり胸が痛くなる歌。
⑨ えりまきばせんば寒かよと言ふ母のこゑ聞こえくる風強き夜
生きているときの母の言葉がそのまま使われていて、亡くなってもどこかで繋がっていることを感じさせてくれる歌。
⑩ 梅の実にゆたかなる香の満ちてきて追熟を待つわたしの人生
実際の作者の姿が等身大で伝わってくる一首。結句の「わたしの人生」を「われの人生」と七音とせず八音にしたのは、作者が歌人としてだけでなく、友達とお茶をしたり映画を観たりすることまでを含めて自分の人生としたように思える。
全体として、両親を看取った作者渾身の歌集であり、悲しみを乗り越えていく術を読者に教えてくれる歌集でもある。
後半で、以上の十首の中から高野氏が選んだのは⑩の歌。高野さんは、「この歌は「蝋燭の長き炎のかがやきて揺れたるごとき若き代すぎぬ」の上の句が実景であると同時に序詞となっているのと同じであり、追熟を待つのは梅の実であり作者の自分の人生の両方である」と評しました。田宮さんは②を選び、やはり背中がよく、この歌は幸せ感に満ちており、それが後の辛さを際立てると評しました。大松さんは③.朝顔の枯れゆく音は実際には聞こえていない音で、記憶の中の音をたどって歌にする。その取材力に歌人としてのすごさを感じると評した。
英子さんを代表として取り上げたが、他の9人にも同様に評が行われ、充実した時間だった。最後に余興として面白短歌が行われ、小島ゆかりさんが司会兼コメンテーター的なことをやって楽しませてくれた。
なお、この様子は南の魚座の有川知津子ブログで全体像を見ることができるので、参照してほしい。https://minaminouo.exblog.jp/30951105/
(中村仁彦)
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